言葉と建築(Ⅹ:ビルディング/アーキテクチュアという切断)

言葉と建築−建築批評の史的地平と諸概念− 土居義岳

メモ

■カテゴリー論のアポリア
 ホラインやピッヒラ―の汎建築主義の提供したものとして、「建築」とは、ア・プリオリなのかア・ポステリオリなものなのか、というある意味で建築にとって根源的な議論がある。「建築」が主観の側にあるのか客観の側にあるのか。存在論なのか認識論なのか。
ホライン → 初期の作品のピルにみられるように、知覚作用の構図にあるとする。「建築」はア・プリオリなものだと。

ここで重要なのは、こうした対立図式が存在することこそが本質的で、二者択一の構図そのものが問題。
田中純「美術史の曖昧な対象 衰退期(デカダンス)について」1995
「彫刻的/絵画的」「線的/絵画的」といった対立図式が、芸術における自律的な批評言語として確立されたことの意味を探る。
重要なのは、相互に矛盾する背反的・排他的な二項目を設定する行為そのものであるという。
塚原史「言葉のアヴァンギャルド」1994
未来派・ダダ・シュルレアリスムなどの20世紀の前衛運動を論じる上で、これらの背景に「意味の切断」をみる。この行為をもたらした原点(?)として、ソシュールの『一般言語学講義(1916)』を上げる。
「恣意的」な切断
 曖昧な概念を分断し、両項目(記号における『記号表現』と『記号内容』)結びつき方には明確な根拠がない、ということよりも、よりラディカルに、両者は無関係だと宣言し、荒々しく両者を切断する行為をとる。それが恣意的の意味するところ。

ここまでのまとめ
ビルディング、アーキテクチュアはかように切断されており、それを結合することが恣意的だということがア・プリオリな与件。裂け目の斜線(/)があることが本質的であり、それこそが近代の柱になっている。

■建築の領域での「切断」
 歴史
 ウィトルウィルス → 「芸術/工学」はテクネーの体系として統一されていた。
 パラディオ → 技術<芸術 の傾向。芸術の突出。
 認識論
 伊東忠太「アーキテクチュールの本義」
ビルディングにアートを付加したものがアーキテクチュール。→ビルディングにすぎない構築物とアーキテクチャーに達したそれとが「事前的」に区別。
廣松渉「世界の共同主観的存在構造」
「・・・として」の構成を展開。→ある工作物を「それ以上の」何かとしてみる認識の行為こそが、アーキテクチュアを生む。「事後的」な評価。
■「切断」の機能と作用と可能性
モダニズム → アーキテクチャーを否定し、ビルディングに回帰しながら、そのつどアーキテクチャーを構築してしまうという、絶対矛盾のサイクルを繰り返す。
磯崎新 → ビルディングを「事後的」に語ることでアーキテクチャーを成立させようとする。アーキテクチャーは事後的にしか出現しない、つまり自身のエクチュールこそがそれであると。ビルディング/アーキテクチャーを、恣意的に、気ままに繋いでは切り離し、弄んでいるまさに近代理性そのものであり、確信犯。