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本棚に久々に懐かしい本を見つけた。
設計をするときに、アイデア出しに行き詰まるとよく見ていた写真集。

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建築写真について詳しい訳でもないし、ましてやホンマタカシの他の写真をたくさん見たことがある訳でもないけれど、ちょっとメモしておこう。

この写真集に載っている写真は、専門誌に載るような建築写真とは全然違う。この写真集に載っている写真は、“構成”の面白さや、“ディテール”を見る人に伝える写真ではなくて、“環境”(今はこんな言葉でしかいえないが)を伝えてくれるところが好きだ。空気感ていったらいいのか。もっと、こう建築を感じることができるんだよ!って教えてもらった。

それまでは、専門雑誌なんかに載っている写真のような建築の見方が正しいんだ!そう見るべきだ!と思い込んでいた。
例えば、大学に入ってまず教えられたのが、広角レンズのカメラが必要だみたいなやつ。そして、何を見るにもその広角レンズで全体の構成を、写真にめいいっぱい撮りまくってた。そんなんに一生懸命だったから、建築と全然向き合えてなかったと思う。

話は飛ぶけど、自分がどんな建築の見方(感じ方)をするかは、設計に大きな影響を与える。もっとそこに意識的になりたいと改めて思った。

SUPERLEGGERA

座ってみたいイス

なかなかあのイスに座ってみたいと思うことは無いんじゃないかなって思うのだけど、どうしても座ってみたいイスがひとつある。


The "Superleggera" chair (Gio Ponti)


この椅子に座った時のことを想像するとドキっとする。
めちゃめちゃ軽く作られた椅子な訳だけど、その「軽い」っていう実用性以上に、「軽い」ことが座った時の感触を想像させるから。

座ったときにこの4本の脚が地面と噛み合う。座面はそのときにちょっとしなる。そんな風にして自分と椅子と地面がぐっと絡むようなイメージ。


もちろん、ジオ・ポンティらしい無駄の無い洗練されたデザインもいい
シンプルなこの広告も

言葉と建築(Ⅹ:ビルディング/アーキテクチュアという切断)

言葉と建築−建築批評の史的地平と諸概念− 土居義岳

メモ

■カテゴリー論のアポリア
 ホラインやピッヒラ―の汎建築主義の提供したものとして、「建築」とは、ア・プリオリなのかア・ポステリオリなものなのか、というある意味で建築にとって根源的な議論がある。「建築」が主観の側にあるのか客観の側にあるのか。存在論なのか認識論なのか。
ホライン → 初期の作品のピルにみられるように、知覚作用の構図にあるとする。「建築」はア・プリオリなものだと。

ここで重要なのは、こうした対立図式が存在することこそが本質的で、二者択一の構図そのものが問題。
田中純「美術史の曖昧な対象 衰退期(デカダンス)について」1995
「彫刻的/絵画的」「線的/絵画的」といった対立図式が、芸術における自律的な批評言語として確立されたことの意味を探る。
重要なのは、相互に矛盾する背反的・排他的な二項目を設定する行為そのものであるという。
塚原史「言葉のアヴァンギャルド」1994
未来派・ダダ・シュルレアリスムなどの20世紀の前衛運動を論じる上で、これらの背景に「意味の切断」をみる。この行為をもたらした原点(?)として、ソシュールの『一般言語学講義(1916)』を上げる。
「恣意的」な切断
 曖昧な概念を分断し、両項目(記号における『記号表現』と『記号内容』)結びつき方には明確な根拠がない、ということよりも、よりラディカルに、両者は無関係だと宣言し、荒々しく両者を切断する行為をとる。それが恣意的の意味するところ。

ここまでのまとめ
ビルディング、アーキテクチュアはかように切断されており、それを結合することが恣意的だということがア・プリオリな与件。裂け目の斜線(/)があることが本質的であり、それこそが近代の柱になっている。

■建築の領域での「切断」
 歴史
 ウィトルウィルス → 「芸術/工学」はテクネーの体系として統一されていた。
 パラディオ → 技術<芸術 の傾向。芸術の突出。
 認識論
 伊東忠太「アーキテクチュールの本義」
ビルディングにアートを付加したものがアーキテクチュール。→ビルディングにすぎない構築物とアーキテクチャーに達したそれとが「事前的」に区別。
廣松渉「世界の共同主観的存在構造」
「・・・として」の構成を展開。→ある工作物を「それ以上の」何かとしてみる認識の行為こそが、アーキテクチュアを生む。「事後的」な評価。
■「切断」の機能と作用と可能性
モダニズム → アーキテクチャーを否定し、ビルディングに回帰しながら、そのつどアーキテクチャーを構築してしまうという、絶対矛盾のサイクルを繰り返す。
磯崎新 → ビルディングを「事後的」に語ることでアーキテクチャーを成立させようとする。アーキテクチャーは事後的にしか出現しない、つまり自身のエクチュールこそがそれであると。ビルディング/アーキテクチャーを、恣意的に、気ままに繋いでは切り離し、弄んでいるまさに近代理性そのものであり、確信犯。

建築論(3)

メモ
■建築論の特殊問題
・様式の問題
 建築において、「様式」は作品について特定の時代・民族・流派・作家などの表現上の特質を示す場合に用いられる。また、建築は様式を通じて類型化する傾向を持つ。これは、建築デザインを門切り型にする欠点を持っている。
 様式の成立
 様式成立のモメントは、ゼムパー、テーヌはじめとする芸術そのものの外に求める見解(唯物論的・環境論的)とリーグルをはじめとする芸術そのものの内に求める見解(観念的)がある。前者は様式の他方的な、民族的な差異の説明には良くあてはまっているが時間的差異については十分にできない。その点では後者のリーグルの見方はすぐれていた。
 時間・空間それぞれの面で捉えた様式
 様式を時間で捉えた場合、たがいに対立する連続説と非連続説の2つの捉え方がある。それらは生物学的思考になぞらえれば、連続説はいわば進化論的見地に、非連続説は突然変異を認める反進化論的見地に立っている。様式の成立に関する説と関係づけるとすれば、それぞれ、形式そのものの理念が発展するとする観念論的見地と形式を外的条件から導こうとする唯物論的・環境論的見地とおくことができる。
 空間で捉えた場合、地方主義と国際主義が識別できる。
注:グロピウスの唱えた国際様式には、個人的なもの国民的なものの客観化が認められるという。個人-民族-人類のうち最後のものが他の2つを内包し、ここに国際様式のあると言っている。
 伝統主義と合理主義
 伝統(時間的な連続性を認め空間的な局所性を強調)は一般に、様式に形式言語的性格を確保させるに大きく作用する利点を持つ一方で、人間がそれに対する愛着を持つために、一般に権威として受け取られ、一種の拘束力として作用しがちだ。これは、様式主義をもたらし建築芸術の衰退を招きかねない。
 これに対し、分離主義者は、合理(時間的な非連続で空間的には国際主義となる)にいきつく。しかし、合理主義はそれが芸術の外に求めているが故に、形式一般の類型を求めることができたとしても、芸術的形式の類型に限定する限りでは容易ではない。そうなるためには、芸術的形式の内より発する別の原理が要求される。

・法則と自由
 従来の建築造形をみると、そこにたがいに相反する2つの理念、法則と自由の存在に気づく。これらはどういった意味を持つか。
 芸術的造形において、法則(造形を規制する何か)は無意味・有害なものとして否定するのか。ここには、古典主義とロマン主義の対立に見られるように、芸術の創作に法則を肯定する考えと否定して自由を主張する考えの二つの流れがある。
古典主義:法則を肯定した。法則は芸術作品の構図に秩序(客観性)を与えようとする、要求に根ざす作品そのものの内から発する拘束・制約であった。しかし、それは造形を著しく固化する方向に陥る可能性を含んでいる。
ロマン主義:法則を否定し、古典主義に対して、法則から自由であること・感情の衝動、躍動をもとに作品の上に個性表現するべきだと主張する。しかしそれは、受容者に通じない独りよがりに陥る可能性を含む。
注:こうしてみると、一見古典主義には自由がないように見えるがそうではない。ロマン主義に感情の衝動・躍動に従順な恣意の自由があるとすれば、古典主義には理性に従う自律の自由がある。つまり、法則は芸術家自らが芸術に課す法則であって、それは固定した融通がきかない掟ではなく、その枠内では転調が可能である。

・建築造形における表現の諸相
記念的表現
建築に記念性をもたらすものは、造形上の表現そのものにある。つまり、芸術的表現形式についてのみであって、耐久性(建築の持続性は)は記念的表現を支えるものであってここに原因があるわけでない。
 記念的な表現とは、作品の奥に深く秘められた深刻な美を表出するよりもむしろ外貌的な人目をひく積極的な自己顕示型の美を表出すると言った上で、このような意味で建築はどのような様式をとっても記念的であるという。
 現代建築が記念的表現になりにくいことを説明したうえで、建築家・受容者が建築造形における記念的表現の妥当問題について、記念性の本質・表現のあり方をふまえ、一考すべきだと言う。
古典的表現とロマン的表現
 西洋において、主な表現の相を認識することができるものとして、古典的とロマン的がある。
 古典的表現ギリシア建築に典型的に認められ、明晰・均斉・端正・高貴・完結などの語によって形容される相である。
 ロマン的表現:強いてその祖形を求めるとすればゴシック様式にそれに近いものがある。古典的表現との対比を用いて説明すれば、神秘・無限定・漂渺(ひょうびょう)・動的・劇的などの語によって言い表せる。
日本的な表現
 日本的な表現とは、一般的に、日本文化一般が特徴的に備えている資質、日本人の心情にぴったりと応答する相が持つ資質を言い表す。ここでは、表現の諸相を歴史的に追跡することで日本的という概念を把握しようと試みる。それらを総括したうえで日本的と言われる表現の一般的な性格およびその技法のいくつかを拾い上げる。それらを中国建築、西洋建築との対比によって説明する。
 記念的表現・自己顕示的でなく自己抑制的であること
 質的な意味において細かいこと
 非対称性
 自然をできるだけ多く導入している点
などをあげている。

建築論(2)

メモ
■建築の各存在様態相互間の相関
 建築に内在する各様態の建築論的問題をふまえ、次はそれらの係わり合いの問題について。
2つずつ組み合わせるとそれらは
1物体性と効用性(物理的実存在と事物的実存在)
2物体性と芸術(物理的実存在と現象的実存在)
3物体性と超越性(物理的実存在と超越的実存在)
4効用性と芸術性(事物的実存在と現象的実存在)
5効用性と超越性(事物的実存在と超越的実存在)
6芸術性と超越性(現象的実存在と超越的実存在)
に分けられる。まずはそれらを扱い、適宣3つ4つの組み合わせを論じる構成。
1については建築論の領域外のまったく実際に即した問題に属し、また、3・5のように超越性は効用性はもとより物体性と係わりをもつことはおそらくない(理知や感覚を超えたところにあるため)。このとき6については超越性の問題を論じた時に触れているのでここでは省略するとしている。そうしたうえで、2と4について論じようと試みる。
2・4の核心について、端的に言うとそれらは「力学的に合理的な構築はそれ自体美しいか」「実際の役に立つ建築はそのこと故に美しいか」と言い表すことができる。
注:ここではさらに物体性について、建築が実存在するということは、物体-建築が単に瞬間空間内に位置を占めるということを意味するだけでなく、それがある時間持続するという合目的性を含むということができると言っている。
 こうした問題が現実に建築の製作または観照において浮かび上がるのは、建築における芸術的なものと合理的なものあるいは合目的とが観念的にはっきり区別され、かつ両者の何かぎくしゃくした関係が意識されるようになる近代以後だということを確認した上で、芸術性と合目的性(物体性と効用性)の関係のあり方を、「芸術性と合目的性の相関関係を認めない立場」と「芸術性と合目的性の相関関係を認める立場」の相反する2つの立場から考察する。
①芸術性と合目的性の相関関係を認めない立場
この立場は、その論理的根拠をカントの学説に置く。カントのいう美の自立性の確立は、一般に建築が強さ・用・美の3つの要求に発する形象がそれぞれ独立性を保ちながら共存して、一つにまとめられるという理論を肯定する。しかし、このとき、3つの要求の強さはどの建築にも一様であるわけでないことに注意すべきである。カント流の見地に立つと建築において構造があらわであるほど、実用的機能が明らかなほど、それの美を把握することが困難となる。これでは、究極的に建築は美的建築であるか実用建築であるかの2つのジャンルに分類されざるをえないこととなる。
②芸術性と合目的性の相関関係を認める立場
 ①の立場の問題にあるように、製作における建築家の意識の中では、美と強さ・用とは分離しえない状態で一つの作品に凝縮している。一方でカントの理論を観念的に受け入れても、実践的にはそれに疑いを挿し挟まずにはいられないのである。ゼムパーはカントの観念的系譜に対して、唯物論てい立場に立って、美を一般美ではなくて、美が現実に発現している様態とし、物的条件(「使用目的」「材料」「製作器具・製作過程」)によって決定されるとしている。その後、ギョイヨーは美と強さ・用についてカントの理論から導かれるこの両者の関係の否定でも、ゼムパー唯物論的見解がもたらす美的認識における物的因子の優位でもなく、人間の生という奥深いところで本質的にそれらが結びついていることを無理なく肯定し理論づける。
 ヴァーグナーゼムパーの論を引き継ぎ、建築の美しい形を成立させるモメントを美の外にもとめるだけでなく、強さ・用から導こうとする。これは機能主義的建築観に受け継がれる。サリバンは「形は機能に従う」(生物学の法則に従って造形されなければならないとした時点で比喩的ではあったが)と主張した。機能主義はその後グロピウスによって定着される。グロピウスのそれは、それまでが用を美に従属させていたのに対し、美を用に従わせなければならないと言っている。
 コルビュジエは芸術性と合目的の結びつきについてギュイヨーのそれとは異なり理性の上に打ちたてようとした。造形一般(機械などの技術の造形にしろ、芸術の造形にしろ)は数の上に成立すると考える。コルはこうして芸術性と合目的の結びつきを肯定する一方で、なお建築の終局目標を芸術においた(つまり同時に純粋美においてさえその内容と形式を数によって結びつける)。機能そのものから生まれる美を超えたところにある純粋な美を肯定しているのである。
 それとは別に、モリスは関係性の問題に異なる経路から近づく。芸術を人生に悦びを与えるものと理解し、その点に芸術の価値を置き、万人に悦びを分かち与える民衆芸術でなければならないとする。用と美の二元論を肯定しながら、芸術を社会現象として捉える立場から、この両者が人生の同じ念願であるという根拠に立ってそれの一者性を主張する。
注:機能主義-事物の存在を、実体として観念的に捉えるのではなく、この作用性において捉え、あらゆる認識を方法論的に機能によって基礎づけようとする主張。
注:グロピウスの機能主義-美の原因を端的に用に帰する唯物論的見解と異なり、造形は物的因子とともに精神的因子を含んでいて、機能は美しい形に先行するが、同時に美しい形態は機能を予測し、含み、両者はたがいに浸透し合って分かち難い一者を形成すると言う。

建築論(1)

「建築論」森田慶一
森田慶一 1895-1983
東京帝国大学建築科を卒業後、一旦、警視庁技師となったのち、武田五一からの招聘で京都帝国大学助教授として赴任。1934年から1936年、古典建築を研究のため、フランス、ギリシアに留学。
分離派として作品を発表する傍ら、『建築論』や『西洋建築史概説』など自らの思索を開陳すると共に、『ウィトル-ウィウス建築書』(東海選書)の翻訳で建築史に大きな一歩を残した。1958年(昭和33年)、京都大学を退官。その後、京都府奈良県の建築調査委員、京都府立博物館調査員などを経て、1963年(昭和38年)から1973年(昭和54年)まで東海大学教授を務める。1974年には日本建築学会大賞を受賞。(wikiより)

「建築論」は京都学派の建築の人たちが主にバイブルとしていた本である。出版は1978/01

建築論

建築論

メモ
最初に、建築の目指すものは、人間の生存・生活のすべての面に係わり、人間そのものに密着していて、途方もなく複雑なのである。だから、『建築する』という造物行為は多面的な目的に向かってなされ、結局建築という一つの作品を生むのである。この終局目的に達するための多くの目的系列を整理し、建築を全一的に把握しようとする知的欲求が生ずるのは当然である。建築論はこの欲求に応じようとするものである。と言っている。
建築を全一的に捉えてその本質を研究する理論的・体系的な考察
この本では、実存(existence)の様態から考えている。あくまでも建築の領域内での体系化。つまり、内からの建築論。
それを前提とし、領域内の建築の本質に関わる問題として、①物質性/②効用性/③芸術性/④超越性をとりあげている。
まずは、上記4つの本質の個々問題についてのまとめ
①物質性
 ・体の持続、永久持続の願い
 ・同一性をめぐる問題 判定者の認識態度、認識意図にかかる
②効用性
 アリストテレス、アルベルティの学問的考察より「健康維持(必然的な用)/生活の快適さ(快適性)/実生活の便利さ(狭義の用)」に分類し言及
・必然的な用
建築による人工環境の造成が人間の生存にどのように関わり合うかが問うべき問題である。つまり、人間と環境、両者の関わり合いを建築環境学以前に溯った領域で取り扱い課題の中に正しく位置づける必要性がある。
・快適性
 快への飽くことなき追求に対して反省を踏まえつつ検討する。
 生物学的立場:恣意的に建築的人工環境を造成していく欲求は、逆説的に人間の環境適応能力を弱める。
 歴史・社会的立場:快の要求の積極化は「贅沢」の指標に関わる。支配階級と被支配者階級・貴族と庶民、富者と貧者の栄枯盛衰。社会現象に対しても責任の一端を追っている
 倫理学的立場:快を求め苦を避ける、人間の本性的欲求。倫理学的評価は各自の人生観にゆだねられるべきだが、建築への快の導入に対して倫理学的反省もありうると言っている。
・狭義の用
 実用的な側面について。産業革命によって物質生活が飛躍的に拡大されて以来、実用性の比重が大きく増すこととなる。建築の機能的分化(レストラン・事務所・学校….)。技術論の一部つまり建築技術論の形成。
 建築論の領域で重要となるのは建築の体そのものを生産するプロセスではなくて、建築技術によって生産されるものに関する。技術の手段でなく目的が問題であるとしている。
 「家は住機械である」(コル)という標語には、建築技術が生産しようとしているものは「人間の生活」であるという考えが潜む。人間の生活を最も総合的に全体的に生み出す建築は住宅であるということができた。しかしその中に主体的な人間が分離できない形で組み込まれていることを考慮すると、最も機械に遠いと言わなければならない。コルの標語は機械に優位を認める技術観に基づく技術の理想を住宅に托したものと理解すべきである。
 しかし、住宅は人間の主体性を伴わない規格化が推し進められ、人間が逆にそうした住宅に適応し住むようになる。
③芸術性
 まずは、建築芸術の芸術世界における位置の検討。マルク=デッソワ―、エチエンヌ=スリオーの芸術の分類を引用しつつ三つの命題「建築は空間芸術である/建築は形式芸術である/建築はヴォリュームを感覚質として成立する芸術である」を提示する。これらを手掛かりに問題点を論じる。
・空間芸術としての建築
 芸術としての空間に関する限り、建築空間は、物理的空間でも事物の空間でもなく、まして幾何学的空間でもなくて、本体に即しながらそれとは別に認識される現象の場としての空間、現象空間、である。
 内部空間が持つことが必ずしも、彫刻と建築を区別しないことを論じた上で、両者の違いを主体(人間)が客体の中に侵入しそれらの部分を構成することと言っている。(内部空間の問題)
 時間芸術もしくはリズム芸術と建築を含めた空間芸術の違いについて、前者が時間経過のうちにそれらを構成している部分が継起的に配列されるのに対し、空間の拡がりのうちに並列的に配列していることを挙げている。一方で対象に即すのみでなく受容側、製作側の立場に立つと建築表現に時間が入り込んでくることに言及している。建築が「凍れる音楽」と言われるように構図に一種の旋律的な、または律動的なものが感じ取れることも事実だとしている。さらに姫路城などの構図を例に、時間を予想してのみ成立する「隠顕」という手法だという(受容側)。ロマンティックな構図は継起的な時間を意識して作られている面もあるし、形象をリズミカルに構成するパターン(アールヌーヴォー・ガウディの作品を例に挙げて)が用いられていることを挙げている(製作側)。(時間の問題)
・形式芸術としての建築
 形式芸術は、内容芸術(絵画や彫刻)に対応した言い方。作品はそれぞれが構成因子として「形式」と「内容」を持ち、そのいずれが卓越するかで分類のされ方が異なる。
 形式:作品において感覚に直接与えるもの(色・音・形)の現象的組織
 内容:連想作用・象徴作用により現実の事象・物象を感じさせ受け取られる事物的組織
形式芸術においてはもっぱら1つの作品の中で分別不可能な一者として両組織が存在している。建築は、三次元空間内の線や面や立体で組み立てられた抽象的な形そのものによって表象される芸術であり、何らかの現実の事物を想起、結び付くとすれば、それはシュティンムング(美学における感情移入説が説明するところの語?)を媒介としてである
注:建築の形は機能(事物的意味での内容)を表出しなければならぬという近代の機能主義者たちの主張は、いわば建築製作の1つの信念であり、必ずしも建築芸術一般に妥当する形式と内容の本質的係わりを示さない。
・ヴォリュームによって成立する芸術としての建築
 上記までで空間芸術かつ形式芸術であることを規定したうえで、それらに含まれるアラベスク抽象絵画・照明などとの違いについて、ヴォリュームを主たる感覚質とした芸術であることで区別する。
 このとき、芸術として認めることが可能なのは、体系化された形象である。感覚的所以である無数の形をでたらめに採用するのではなく、ある形の集合と配列がまとまった芸術的印象を見る人に与えるためには、それが何らかの秩序に従うことが要求される。(シュムメトリア、モデュロールなど)ヴォリュームのスケールに拠っていることが要請される。
 主感覚質としてヴォリュームがあるが。副次的な感覚質があることも無視できない。副次的な感覚質には主感覚質によって成立する建築本体が具有する副感覚質、装飾における副感覚質の2つの問題があるという。ここでは、両者はあくまで補助的な役割を演じるべきであるといい、それらと主感覚質のバランスが重要であるという。それらは建築表現に潤いを与え積極的な働きかけを生むものの、乱用されると建築を工芸作品に転落させる、また本来の表現を弱める結果となるからだ。
④超越性
 一般的な超越性とは感覚、理知によって補足することができない世界にありながら、それが存在すると意識せざるをえないような状態をいう。建築の超越性とは、建築によって規定される空間が何か超越的な色合いを帯びるということ(建築空間が神々しい、聖なる、神秘的な存在としてうけとられる)。
 建築起源に関する二元説、事物的なシェルターの造成と超越的なシンボルの構築。
 建築の超越的な存在様態の特色として、原始建築では呪術に結びついた状態で発現し、文明社会の宗教建築では、美しい建築という芸術的現象と結びついて発現(現象的存在を通じることによって)する。

デザインマネージメント


渡邉英徳さんのデザインマネージメントの授業について。
デザイン、アートにできることは何かを考えていく授業。

渡邉先生は首都大学のインダストリアルコースでデジタル地球儀や仮想世界サービスを応用した情報アーキテクチャのデザイン、アート&エンターテインメントを研究している一方で、実際に製作も行っています。
初回の授業では、主にデザインとは、又はウェブデザインとはどういうことなのかを、自分が携わってきたプロジェクトを紹介しつつ話しています。

まずは
デザインというと真っ先に形や見た目がかっこいいものを思い浮かべがちだが、それだけではないよって話。コミュニティーや仕組みなど、目に見えないものを作ることも大事なデザインだよと。
次に
具体的なプロジェクトの紹介
Google Earthマッピング機能を用いたプロジェクトが紹介されました。
・さくらマッピング http://mapping.jp/
1人1人が桜の写真をグーグルアース上に表示されるサービス。1人1人の小さな参加によって桜前線が浮かび上がる。何より桜って言うのが楽しい。
・団地マッピング http://blog.livedoor.jp/sohsai/archives/50744218.html
住宅都市整理公団の内容をマッピングしたもの。団地のデータベースを作ってきた大山顕さんの長い期間の足跡がマップに描かれる。団地を通して都市計画の姿が分かりやすくあらわれる。
・夜間光マッピング (NOAA)
マップ上で人間の営みの象徴である光によって、営みや経済力が可視化される。可視化されたそれらは時に恐怖も感じる。
・Tuvalu Visualization Project  Tuvalu Visualization Project
海面上昇による水没の危機が話題となっている南洋の島国ツバルに住む人々のポートレート作品集『ツバルに生きる一万人の人類』およびGPSフィールドワークで撮影されたツバルの日常風景を、Google Earth上にマッピング・可視化するプロジェクト。Google Earthを用いてコミュニケーションの可視化される。
ナガサキヒロシマアーカイブ http://nagasaki.mapping.jp/Hiroshima Archive|ヒロシマ・アーカイブ
証言や写真をデジタル地図に載せることで、原爆とそれが引きおこした事態の「実相」をつたえる。ここでは、アーカイブズのインターフェイスは、デザインされたものの一面でしかない。世代や地域を越えて、人々と対話しながら形成された / デザインされた「記憶のコミュニティ」が背後にあると説明があった。
東日本大震災アーカイブ http://nagasaki.mapping.jp/p/japan-earthquake.html
震災直後であり、記憶のコミュニティーを背後にもつことが難しかった。また、思いとどまる部分があったが、宮城大学の学生の積極的な参加によって、最終的には記憶のコミュニティーが生まれることとなる。ここには、コミュニティー形成・デザインの可能性をより感じることができると思う。

最後に、適切なデザインを施すことで、人の心を打つことができる。より強く伝えることができるデザインを目指す。という言葉が印象的でした。
以上が大雑把な授業内容です。

各プロジェクトで重要なのは
トップダウンの情報(Google Earth)であるGoogle Earthを利用している点。
・ヴァーチャルな視点による可視化。
だと思う。「トップダウンの情報」に個人個人の情報を(さくらマッピング)、光という個人個人の振る舞いを表すものを(夜間光マッピング)、個々が生んだコミュニケーションを(Tuvalu Visualization Project)、ある記憶を共有したコミュニティーを(アーカイブシリーズ)重ねることによって可視化されたものには新しい発見を生む、または実相を浮かび上がらせる力を持っています。
ウェブの仕組みは(おそらく)単純で、個々の人々の記録や思いが時間と空間を共有することで複雑な動きや思いもしない結果を生む。つまり簡単なルールの設定が、面白い、または新しい発見につながっています。さらに、アーカイブシリーズでは実空間/web空間、双方を介してのコミュニティー形成が伴うことでより強いメッセージを生んでいます。