建築論(1)

「建築論」森田慶一
森田慶一 1895-1983
東京帝国大学建築科を卒業後、一旦、警視庁技師となったのち、武田五一からの招聘で京都帝国大学助教授として赴任。1934年から1936年、古典建築を研究のため、フランス、ギリシアに留学。
分離派として作品を発表する傍ら、『建築論』や『西洋建築史概説』など自らの思索を開陳すると共に、『ウィトル-ウィウス建築書』(東海選書)の翻訳で建築史に大きな一歩を残した。1958年(昭和33年)、京都大学を退官。その後、京都府奈良県の建築調査委員、京都府立博物館調査員などを経て、1963年(昭和38年)から1973年(昭和54年)まで東海大学教授を務める。1974年には日本建築学会大賞を受賞。(wikiより)

「建築論」は京都学派の建築の人たちが主にバイブルとしていた本である。出版は1978/01

建築論

建築論

メモ
最初に、建築の目指すものは、人間の生存・生活のすべての面に係わり、人間そのものに密着していて、途方もなく複雑なのである。だから、『建築する』という造物行為は多面的な目的に向かってなされ、結局建築という一つの作品を生むのである。この終局目的に達するための多くの目的系列を整理し、建築を全一的に把握しようとする知的欲求が生ずるのは当然である。建築論はこの欲求に応じようとするものである。と言っている。
建築を全一的に捉えてその本質を研究する理論的・体系的な考察
この本では、実存(existence)の様態から考えている。あくまでも建築の領域内での体系化。つまり、内からの建築論。
それを前提とし、領域内の建築の本質に関わる問題として、①物質性/②効用性/③芸術性/④超越性をとりあげている。
まずは、上記4つの本質の個々問題についてのまとめ
①物質性
 ・体の持続、永久持続の願い
 ・同一性をめぐる問題 判定者の認識態度、認識意図にかかる
②効用性
 アリストテレス、アルベルティの学問的考察より「健康維持(必然的な用)/生活の快適さ(快適性)/実生活の便利さ(狭義の用)」に分類し言及
・必然的な用
建築による人工環境の造成が人間の生存にどのように関わり合うかが問うべき問題である。つまり、人間と環境、両者の関わり合いを建築環境学以前に溯った領域で取り扱い課題の中に正しく位置づける必要性がある。
・快適性
 快への飽くことなき追求に対して反省を踏まえつつ検討する。
 生物学的立場:恣意的に建築的人工環境を造成していく欲求は、逆説的に人間の環境適応能力を弱める。
 歴史・社会的立場:快の要求の積極化は「贅沢」の指標に関わる。支配階級と被支配者階級・貴族と庶民、富者と貧者の栄枯盛衰。社会現象に対しても責任の一端を追っている
 倫理学的立場:快を求め苦を避ける、人間の本性的欲求。倫理学的評価は各自の人生観にゆだねられるべきだが、建築への快の導入に対して倫理学的反省もありうると言っている。
・狭義の用
 実用的な側面について。産業革命によって物質生活が飛躍的に拡大されて以来、実用性の比重が大きく増すこととなる。建築の機能的分化(レストラン・事務所・学校….)。技術論の一部つまり建築技術論の形成。
 建築論の領域で重要となるのは建築の体そのものを生産するプロセスではなくて、建築技術によって生産されるものに関する。技術の手段でなく目的が問題であるとしている。
 「家は住機械である」(コル)という標語には、建築技術が生産しようとしているものは「人間の生活」であるという考えが潜む。人間の生活を最も総合的に全体的に生み出す建築は住宅であるということができた。しかしその中に主体的な人間が分離できない形で組み込まれていることを考慮すると、最も機械に遠いと言わなければならない。コルの標語は機械に優位を認める技術観に基づく技術の理想を住宅に托したものと理解すべきである。
 しかし、住宅は人間の主体性を伴わない規格化が推し進められ、人間が逆にそうした住宅に適応し住むようになる。
③芸術性
 まずは、建築芸術の芸術世界における位置の検討。マルク=デッソワ―、エチエンヌ=スリオーの芸術の分類を引用しつつ三つの命題「建築は空間芸術である/建築は形式芸術である/建築はヴォリュームを感覚質として成立する芸術である」を提示する。これらを手掛かりに問題点を論じる。
・空間芸術としての建築
 芸術としての空間に関する限り、建築空間は、物理的空間でも事物の空間でもなく、まして幾何学的空間でもなくて、本体に即しながらそれとは別に認識される現象の場としての空間、現象空間、である。
 内部空間が持つことが必ずしも、彫刻と建築を区別しないことを論じた上で、両者の違いを主体(人間)が客体の中に侵入しそれらの部分を構成することと言っている。(内部空間の問題)
 時間芸術もしくはリズム芸術と建築を含めた空間芸術の違いについて、前者が時間経過のうちにそれらを構成している部分が継起的に配列されるのに対し、空間の拡がりのうちに並列的に配列していることを挙げている。一方で対象に即すのみでなく受容側、製作側の立場に立つと建築表現に時間が入り込んでくることに言及している。建築が「凍れる音楽」と言われるように構図に一種の旋律的な、または律動的なものが感じ取れることも事実だとしている。さらに姫路城などの構図を例に、時間を予想してのみ成立する「隠顕」という手法だという(受容側)。ロマンティックな構図は継起的な時間を意識して作られている面もあるし、形象をリズミカルに構成するパターン(アールヌーヴォー・ガウディの作品を例に挙げて)が用いられていることを挙げている(製作側)。(時間の問題)
・形式芸術としての建築
 形式芸術は、内容芸術(絵画や彫刻)に対応した言い方。作品はそれぞれが構成因子として「形式」と「内容」を持ち、そのいずれが卓越するかで分類のされ方が異なる。
 形式:作品において感覚に直接与えるもの(色・音・形)の現象的組織
 内容:連想作用・象徴作用により現実の事象・物象を感じさせ受け取られる事物的組織
形式芸術においてはもっぱら1つの作品の中で分別不可能な一者として両組織が存在している。建築は、三次元空間内の線や面や立体で組み立てられた抽象的な形そのものによって表象される芸術であり、何らかの現実の事物を想起、結び付くとすれば、それはシュティンムング(美学における感情移入説が説明するところの語?)を媒介としてである
注:建築の形は機能(事物的意味での内容)を表出しなければならぬという近代の機能主義者たちの主張は、いわば建築製作の1つの信念であり、必ずしも建築芸術一般に妥当する形式と内容の本質的係わりを示さない。
・ヴォリュームによって成立する芸術としての建築
 上記までで空間芸術かつ形式芸術であることを規定したうえで、それらに含まれるアラベスク抽象絵画・照明などとの違いについて、ヴォリュームを主たる感覚質とした芸術であることで区別する。
 このとき、芸術として認めることが可能なのは、体系化された形象である。感覚的所以である無数の形をでたらめに採用するのではなく、ある形の集合と配列がまとまった芸術的印象を見る人に与えるためには、それが何らかの秩序に従うことが要求される。(シュムメトリア、モデュロールなど)ヴォリュームのスケールに拠っていることが要請される。
 主感覚質としてヴォリュームがあるが。副次的な感覚質があることも無視できない。副次的な感覚質には主感覚質によって成立する建築本体が具有する副感覚質、装飾における副感覚質の2つの問題があるという。ここでは、両者はあくまで補助的な役割を演じるべきであるといい、それらと主感覚質のバランスが重要であるという。それらは建築表現に潤いを与え積極的な働きかけを生むものの、乱用されると建築を工芸作品に転落させる、また本来の表現を弱める結果となるからだ。
④超越性
 一般的な超越性とは感覚、理知によって補足することができない世界にありながら、それが存在すると意識せざるをえないような状態をいう。建築の超越性とは、建築によって規定される空間が何か超越的な色合いを帯びるということ(建築空間が神々しい、聖なる、神秘的な存在としてうけとられる)。
 建築起源に関する二元説、事物的なシェルターの造成と超越的なシンボルの構築。
 建築の超越的な存在様態の特色として、原始建築では呪術に結びついた状態で発現し、文明社会の宗教建築では、美しい建築という芸術的現象と結びついて発現(現象的存在を通じることによって)する。